
2013年を顕す一文字は「烏」。これが今年のボクの抱負だった。
その志を胸に熊野三山を巡り、伊勢の内宮外宮を巡った。
熊野三山では、太古から連綿とつづく日本人の信仰の深さが、
自然への畏れから派生しているものだ…ということを実感できた。
人間は自然を敬い、自然に一目置くことで、その恩恵を賜る矮小な存在だ…と。
あまたある神社仏閣は元を正せばすべて、自然神への畏れ、怒りを鎮めるために祀られている。
または怨念を鎮めるため。恨みを買うようなことを人間はしてきてしまったのだ。
その最も神格化されたカタチが伊勢の内宮外宮だと、訪れてみて身体が理解した。
その場の空気がすべて「作られている」と感じたのだ。
恭しく丁重に、腫れ物を扱うがごとく振る舞うのが、神への態度。
「神々しい正殿は直視せぬようお願いいたします」
20年に一度の遷宮は、その光臨を瑞々しく後世に引き継ぐため。
「内宮は天皇の祖先、つまり天祖を祀るところです」
この場所を修飾する言葉の数々がこうも空々しいのは、なぜか?
それは覆してはならない事実が秘められていることの、証左。
身体全体で感じた違和感を携えて、ボクは「関裕二」の著作を貪った。
今から一世紀半以上も昔の出来事を、
限られた実証だけでああだこうだと自説をひけらかすのはどうか…と、多くの人は思うだろう。
「もう遠い昔のことだ、そっとしておいてくれ」
「もう決まり切ったことだ、なにをいまさら」
天皇は徹頭徹尾、尊い存在だし、ニッポンという国を作った先祖であるのだから、敬うのが務め。
そのアンタッチャブルな包囲網が、どこまでも怪しい。
疑うことすら御法度な、その空気。
一蹴して葬る、その思考停止な振る舞いが、日本人の無責任主義の元凶だと、今は合点できる。
ここでその説を繙く時間はないのだけど、この一言だけは断言できる。
「天皇家も数ある部族のひとつに過ぎなかった…のだ」と。
骨肉の争いを正当化するためにあらゆる謀略・陰謀・隠蔽を繰り返して、今の天皇は存在する。
そのことを、日本人はもう少し真剣に「思考」したほうが良い。これは忠告である。