
日本という国を、ひとつの「肉体」として捉える。
北海道が「あたま」で、関東あたりが「腰骨」、
九州が大きな「右足」だとすると、沖縄は少し離れた「左足」か。
その左足は、戦後68年…ずっと隣のジョージ君が占有している。
最近、大きな衝突があり、「左腕」から「脇腹」にかけて大怪我もした。
「腰骨」の上あたりは、なんだか放射能の毒素にやられてしまった。
「肉体」として考えれば、話はわかりやすい。
もしあなたが怪我をしたら、肉体はどう対処するだろうか?
いち早く健康な状態に戻そうと、血液を総動員して、恢復に努めるのではないか?
放射能の毒素にしたって、金輪際そんなモノとはおさらば…もう2度と関わらない…と心に誓うのでは?
占有されてる左足にしても、自分の足で立ちたい!とジョージ君を諭して、すぐさま返してもらうのでは?
「健全な思考は、健全な肉体に宿る」
戦後68年間、日本という「肉体」は片端なまま、不健全な思考を宿し続けた。
片端な状態だから薬漬けになり、脳味噌もイカれてしまった。
そのような状態を、白井聡さんは「永続敗戦」と名づけた。
「そもそも多くの日本人の主観において、日本は戦争に【敗けた】のではない。
戦争は【終わった】のです。1945年8月15日は【終戦の日】であって、
天皇の終戦詔書にも降伏や敗戦という言葉は見当たりません。
このすり替えから日本の戦後は始まっています。
戦後とは、戦前の権力構造をかなりの程度温存したまま、
自らを容認し支えてくれるアメリカに対しては臣従し、
侵略した近隣諸国との友好関係はカネで買うことによって、
平和と繁栄を享受してきた時代です。
敗戦を【なかった】ことにしていることが、
今もなお日本政治や社会のありようを規定している。」
日本は【終戦】を迎えることで、「もう二度と戦争はしません」と思考停止を諮った。
「戦争をしません」という宣言は、【しない】という1点においてしか語っていない。
そこには沖縄を焦土の地とし、20万人の国民を集団自決にまで追いやった事実や、
広島長崎に2発もの原爆を投下され、夥しい数の国民が「ピカドン」の一瞬で死滅した事実を語っていない。
頑なに「もうしない!」と踏ん張っている子どもと同じである。
内田樹氏は「この国はどこで間違えたのか」で、
「もう2度と戦争に敗けない」ことを起点としなければ、「もう2度と戦争をしない」姿勢を貫くことはできない…と語った。
つまり、徹底的に【敗けた】事実の検証と猛省と対策なしに、「戦争をしない」姿勢で防御を貫くことはできない…と。
内田氏は合気道をやられているから、実戦を踏まえていて単純明快なのだ。
目の前の敵が闘いを挑んできたとき、正面からそやつを捉え「闘わない」姿勢を貫く…とは、
決して目線を逸らさず、相手の目を見続け、一瞬たりとも敵に動く余裕を与えないことだ。
それだけの凄味を相手に与える…とは、どういうことか。
そこには「もう2度と負けない」という強烈な意志で全身がみなぎり、気魄が宿らなければならない…と語る。
しかし、今の日本はどうだろう。
「もう戦争はしません」としながら、「日米安全保障条約」を後ろ盾に、属国であり続けている。
【核の傘】なる陰の下で、ちょこまか奇声を発しているガキの様相。…おそまつ。
そのような「病んだ肉体」だから、沖縄問題も【仕方ない】と県民に(国民ではない)押しつけ、
原発事故も【仕方ない】とやり過ごし(福島県民に自己責任を語った驚愕!)、再稼働への道を開こうとしている。
改憲によって属国の事実すら【仕方ない】と目をつむり、なし崩しにしようとしているのが、今のニッポンなのだ。
【仕方ない】の集積が、いまの日本社会を形作っている。
「その代表が原爆投下でしょう。
日本の自称愛国者たちは、広島と長崎に原爆を落とされたことを【恥ずかしい】と感じている節はない。
被爆の経験は、そのような最悪の事態を招来するような【恥ずかしい】政府しか我々が持ち得なかったことを端的に示しているはずなのに、です。
原発事故も、政官財学が一体となって築き上げた安全神話が崩壊したのですから、まさに恥辱の経験です。
【仕方ない】で万事をやり過ごそうとする、私たちの知的・倫理的怠惰が、こういう恥ずかしい状況を生んでいる。
恥の中に生き続けることを拒否すべきです。それが、自分の言葉をもつということでもあります」
「健全な思考は健全な肉体に宿る」…その事実を、しかと受け止め、立ち止まり考えることからしか、次の一歩は生まれない。