
4月17日(火)。今日も早朝からビル清掃。
空調とLEDが整ったインテリジェント(!)オフィスの
フロアを滞りなくバキューム(掃除機)することが仕事。
毎朝、同じ作業を繰り返す。
苦労といえば、朝が早いことだけ。
だから、思考フリーな2時間。
山本太郎の著作を反芻しながら、
「なぜ今、再稼働なのか」に思いを巡らす。
カラダは無人のオフィスでバキュームをかけている。
勝手に動く手足に作業は任せて、
ふわふわと脳味噌に血を集める。
企業の側に立って考えてみると、話は明快だ。
全国に54基ある原発は、いわば「電気の工場」。
自分たちの商品を生産するラインを閉鎖するということは、
商品の供給が滞る(売るモノが作れなくなる)だけでなく、
要らなくなった工場を廃棄する負担をそれだけ抱えること。
そこでピンと来た。
なるほど、なるほど。
ただでさえ処理に難渋する原子力。
トイレのないマンションの喩えもあるように、
原子力に関しては、汚物を処理する方法論がない。
増して54基もの原子力発電所である。
これがすべて閉鎖→廃棄となれば、
どれだけの負債を計上することになるのか?
ああ、なんということだろう、この経済って奴は。
アンチエイジングも甚だしい話じゃないか。
結局のところ、戦後の高度成長は、
その文脈から「死」を排除してきたのだ。
人口が減り、高齢化が進む中で、
経済構造も成熟期から爛熟期へと(衰退期?)移行。
しかし、いつまでもアンチエイジングの錬金術を掲げ、
自分たちはまだまだ成長し続けると豪語する。
実は実は、もうエンディングノートを記す時なのだ。
なんということだろう。
「死」を排除した片端な円環でいつまでも夢ばかり描きながら、
どんどん綻びが酷くなっている状況を小出しにして
「小じわを頭皮に押しやると法令線も目立たなくなりますよ」など
その場しのぎの弥縫策で金を巻き上げ(消費税増税)、
「死」を視界から追いやることばかりに躍起となっている。
「再稼働」は、そんな死に態から目をそらす活力剤(バイアグラ?)だと信じているのだ。
もういい加減に現実を見据えたらどうなんだ。
ボクたちは今回の事故で汚染されたフクシマの土壌と恒久的に向き合い、
事故によって発生した大量のガレキや廃棄物を安全裡に処理するだけでなく、
54基もの原子力発電所を何十年もかけて廃棄処分にし、
それこそ大量の核廃棄物を、長い時間をかけて地下深くに埋葬しなければならない。
それだけじゃない。
1千兆円にも膨れあがった国の借金と
真摯に向き合うことも必要なのだ。
エンディングノートの騒ぎじゃないぞ。
どれだけ死に態なんだ。
これもアンチエイジングで不老長寿だと
死をごまかしてきた戦後ニッポンの欺瞞が生んだ結果である。
Memento mori「死を想え」
我々はもっと死生観のある国民ではなかったか?