
あらゆるものは、動きながら、ある時、あるいはほかの時、
そこここで一時の休息を記す。空飛ぶ鳥は巣を作るためにある所にとまり、
休むべくしてほかのある所にとまる。歩いている人は、欲するときにとまる。
同様にして、神も歩みをとめた。あの輝かしく、すばらしい太陽が、神が歩みをとめた一つの場所だ。
月、星、風、それは神がいたところだ。木々、動物はすべて神の休止点であり、
インディアンはこれらの場所に思いを馳せ、これらの場所に祈りを向けて、彼らの祈りが、
神が休止したところまで達し、助けと祝福とを得られるようにと願う。
(北米ダゴタインディアンの老賢人による言葉)
トーテミズム的人間の、意識の内側を、想像してみることができる。
社会の中で生きるとき、彼の意識はたしかに人間を生きている。
しかし、彼は同時に、自分の存在が人間だけで構成された世界で完結していないことを、知っている。
熊楠と名付けられた南方家の少年は、自分が「熊」として、動物の領域への通路を開かれ、
また「楠」として、植物的生命の内面世界へのつながりをもっていることを、感じている。
それと同じように、トーテミズムの主体は、自分の魂が、単一のフォルムの中にはおさまりきれない、
重層性を内包していることを、知っているのだ。また、重層性でできたその魂は、
いつも自分の内奥に、「創造的」な「流れる」ものの実在を、感知している。
人間が個体性や有機体として体験しているものなどは、この「大いなる創造力の流れ」の、
一時的な休止点にほかならない。
(第一章「市民としての南方熊楠」より)
世界に現象しているものはすべて、神である偉大な「流れる」実体の、休止による表現にほかならない。
ここでいう「神」とは人知を越えた領界…とでも言えばよいだろうか。
万物に「ことわり」があるとすれば、それは常に「流れる」存在なのだ。
その「ことわり」において世界は、一時休止した「かりそめ」の凝固物であり、
いずれ混じり合い、束となり、次なる休止点へと向かう。
この世界観を読んだとき、ボクは三島由紀夫の「天人五衰」ふたたびを思い出した。
もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであったとしたら、
一旦個性を失ったのちは、わざわざ空間と時間をくぐって交換の手続きを踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であっても、何ら妨げがない。
糸を切って一旦卓上に散らばった夥しいビーズを、また別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ
落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不滅の唯一の定義だった。
三島は南方熊楠を知っていたのだろうか?
知らなかったに違いない。
知っていたら、切腹など取るに足らぬ行為だと、分かったはずだ。
南方の視点と、三島の視点は、対極にある。
どこまでも個を貫く三島の論調と、
大いなる自然に抱かれ、万物は流れるとする南方熊楠。
この相違が、ボクには興味深い。