
BRUTUS最新号を読んだ。
「なぜ沖縄は、人を惹き付けるのか?」で
かつての島の友人・知人が記事となって紹介されていた。
島の生活。
記事を読んであらためて思った。
そう、沖縄には自然が生活と共にあった…と。
国道の渋滞にイライラしながら窓を開けると、
潮風が頬をすり抜けていった。
見上げると、フロントガラスいっぱいに夕焼けが迫っていた。
そんな、「ハッ」とするような瞬間が
日々の中に常にあるのが、島の生活だ。
もちろん、東京にも
そういった自然との対面は
生活の中に潜んでいる。
となりのベランダから夕顔が白い花弁を覗かせている。
鳴き尽くした蝉が駐輪場で息も絶え絶えと伏っしている。
夕方の川辺にトンボがもう姿を現している。
でもそういった風情に浸る余裕を、都会は容赦なく剥奪する。
まるで東京が日本列島の経済をまわす動力源だと気負うかのごとく、
この摩天楼で働く人々は常に「経済発展」に振り回されている…ような気がする。
いろんなものが集中しすぎているから、だろう。
何かを産み落とし続けることが、東京の活力であり、
ニッポンの活力であると、信じて疑わないところがあるんだと、思う。
政治もしかり。
中央が決めないと、何も始まらない…と勝手に覇権争いを始めている。
視野が狭い…というか。自尊心が高い…というか。
ゆうだいが言うように、
「まずは東京をぶっ壊してから、始め」なくては
本来のニッポン復興はあり得ないような気がする。
◎
よしもとばななさんが新聞のコラムで
ミコノス島の話を書いていた。
島での食事では、決して飲み過ぎることもないし、
食べ過ぎることもない、太ることや痩せることもない。
なにもかもが流れるように自然だから。
「不自然な環境に美味しいものだけがありすぎるから、ドカ食いがある。
そのへんにある美味しいものを適度な運動の後に、時間をかけてあれこれいただく、
ということをしていたら、人はそんなにおかしなことにはきっとならないんじゃないかな、と思う。」
自然とともにあるから、人は自然の一部だと自覚があるから、
適度を知り、適量を超えない。これはどんな事柄にも言えること。
コンクリートジャングルの幽閉された空間で、
作られた生活や政治を営んでいるから、間違った方向へと進んでしまう。
もっともっと、自然を知ったらいい、自分を見知ったらいい、そう思う。
そう、被災地に立ったら、ええ。
おのれの無力さを見知ったら、ええ。
そこから、すべてがはじまるんだ。