【谷川徹三】雨ニモマケズ


「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」

宮沢賢治の言葉。

読み解けば読み解くほど、
賢治の自己を律する心の強さに惚れ惚れとする。

 「雨ニモマケズ」谷川徹三著

宮沢賢治と同時代の哲学者であり詩人でもある著者が、
かの谷川俊太郎の父と知った時の衝撃。

1896年に生まれ、
「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」に
代表される聖人化されたイメージで、
遠い過去の巨人という認識だったが、

あの俊太郎の父と同世代であった…と聞かされると、
なんだかとても近い人物に思えてきた。

 感受性というものは、
 あらゆるものを味わって究極に至るもの、
 つまり「自己拡大の極」と、
 
 清らかで透明な状態にいつもそれを保つ、
 「自己放下の極」とを両極とするものであります。
           (「雨ニモマケズ」谷川徹三著)

西洋的貪欲さが「自己拡大の極」であれば、
日本的清冽さが「自己放下の極」だと、著は説く。

ワインやチーズの、発酵度合いやクセに味わいを求めるのと、
大根や人参の、素材の甘さや香りに食の悦びを得るのとの違いだろうか。

 賢治の芸術もその意味において決して素朴ではない。
 ただ、しかしながら、自己拡大の極にどこまでも執しようとするものと、
 その自己拡大の極を通して自己放下の極みに至ろうとするものとの間には、
 やはり大きな違いがある。   (同著)

冒頭の「銀河系を自らの中に意識して」や「雨ニモマケズ」から見える
賢治の世界観は「足るを知る」法華経的な禁欲精神である。

しかし、裏を返せば、彼はそれだけ「自己拡大」な欲求の強い人間だった。
だから自らを「修羅」とし、それゆえに執拗に禁欲を求めたのではないか。

そして、己の欲深さ故に、他人の情念を敏感に感じ取り、
情念から派生する「嫉妬」「羨望」「怨恨」「傲慢」「虚栄」「名誉」の行く末を嘆いたのではないか。

 ただひとつどうしても棄てられない問題は、
 たとへば宇宙意志といふようなものがあつて
 あらゆる生物をほんたうの幸福にもたらしたいと考へてゐるものか、
 それとも世界が偶然盲目的なものかといふ
 いわゆる信仰と科学とのいづれによつて行くべきかといふ場合、
 私はどうしても前者だといふのです。
 
 すなはち宇宙には実に多くの意識の段階があり、
 その最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を窮境の幸福に
 いたらしめようとしてゐるといふ、まあ中学生の考へるような点です。

このような「愛」の深き人間に「ワタシハナリタイ」。