
移り気な私が、愛について犯した過ちは、
相手の人格や尊厳を尊重するというようなものから遠く、
自己欺瞞と無神経さと身勝手と、
精神的にも性的にも対等では無く睥睨するような立場を否定しない、
詐欺のようなやさしさだったのです。
観念からほど遠い形而下の欲望を動機とした、
恥ずかしいこんな勘違いがどうして、
私に巣食っていたのか。
時代なのか、教育なのか、環境なのか、
いいえ、自分自身で克服しなければならないはずなのですが。
「東京~奄美 損なわれた時を求めて 島尾伸三」
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表現に向き合うとどうして、
自分自身と向き合わざるを得ない。
特に人間と対峙する場合。
その人物を表現しようと
おこがましくも気負った場合。
相手の人格や尊厳を尊重するというようなものから遠く、
自己欺瞞と無神経さと身勝手と、
精神的にも性的にも対等では無く睥睨するような立場を否定しない、
詐欺のようなやさしさ…
そんな薄っぺらな自分が露呈しているようで、
相手との距離感を見失ってしまう。
距離感。
写真を撮ると、自然…その距離感が画に顕れる。
この等間隔さ。これが、自分の現状。
東京滞在中、島尾敏雄氏の「死の棘」を携えていた。
氏の求道者としての右往左往する様が、悼んだ。
写真を撮る行為に崇高を求めているわけではないのに、
なぜ自分をこうも欺瞞で彩ろうとするのだろうか?
あたかも、世俗の欲望を払拭できない高齢者が、
香水や高級品で身辺を飾り尽くすようにです。
「前出 島尾伸三」
おそらくニュートラルに自分を出せれば、訳ない話。
それが出来ないでいるのは、脆弱であるからだろう。
単に向き合えば、それで済む。
それが怖いのだから、救いがない。
写真は甥っ子の「悠真くん」。
子供は自我に意識的でないから、純潔無敵だ。