
12月13日(土)。
汗ばむ陽気。12月とは思えない。
午後1時。
琉球大学の生徒に混じって
首里城周辺の歴史を学ぶべく
講習会に参加。
西岡先生引率のもと
首里城の歴史を散策する。
驚愕の連続である。
「旧日本軍首里司令部壕跡」
などというものが、首里城地下に存在している…。
そのために首里は壊滅的な戦禍に襲われた…ということを。
沖縄戦はもともと本土決戦を迎えるまでの
時間稼ぎとして行われた争いで、
1945年4月1日、米軍が読谷に上陸した際も、
何も報復せずに力を温存し、軍勢を南部へ移動することしか考えていなかった。
首里の頂きをベースに「鉄血勤皇隊」と呼ばれる学徒隊を使って
米軍の戦車を自らの命で足止めさせたりした…という。
琉球人の尊厳を真っ向から否定し、
彼らの命を爆弾のひとつとしか認識せず、
ひたすら時間稼ぎのためだけに、むやみに沖縄戦を長引かせた。
指令を司った第32軍は、もともと中国の南京大虐殺実行部隊だった。
だから琉球人の命など、中国人と同等ぐらいにしか思っていなかった。
1945年5月28日、首里司令部壕が占拠され、摩文仁方面への退去を余儀なくされたときも
日本軍は降伏せず、ひたすら平民を巻き添えにしながら、戦禍をいたずらに長引かせた。
そして6月23日、日本軍最高責任者の牛島司令官と長参謀長が
摩文仁の丘で自決を謀り、米軍の勝利が決定的となったあとも、
平民はその後2ヵ月ものあまり、米軍の圧力に屈せずひたすら逃げまどっていた…という。
つまり、沖縄戦は日本軍から放っておかれた。
8月15日に終戦を迎え、玉音放送が流れたあとも、
指揮系統が崩壊していた沖縄は、戦闘継続が個々の判断で行われ、
結果、何も知らない沢山の平民が集団自決で死んでいったのだ。
結局、沖縄守備軍の降伏調印が9月7日に嘉手納で行われるまで
約1ヵ月間も無法状態だったという事実。
実際には6月23日の司令官自決より2ヵ月半、意味もなく戦闘が続けられていたのだ。
なんということか。
そのような事実が一言も語られることなく首里城の下に放っておかれている。
修学旅行で沖縄を訪れる学生たちは、朱や金で華やかに彩られた世界遺産に誤魔化され、
南国の楽園「オキナワ」として刷り込まれて帰って行く。
…それでいいのか。
そんなことで「鉄血勤皇隊」は報われるのか。
オキナワのアイデンティティはどこにいったのか?
4時間もの首里散策で、とんでもない事実を突きつけられた。
濃厚なオキナワ体験だった。