「オレ様化」と「スピリチュアル」


毎日、毎日、仕事が遅々として、山積み状態である。
昨日はついに疲労困憊に陥り、頭痛が止まらず、睡眠を摂った。

しかし、さまざまな仕事を同時進行で進めていると、
いろんなことが見えてくる。

多様な人間との関わり合いで仕事は進行する。
当然、チームワークが求められる。

進行のうまい奴、身勝手な奴、段取りの悪い奴…。
身の処し方が器用な奴、不器用な奴、理不尽な奴、意味不明な奴…。
融通の利く奴、利かない奴。マイペースな奴、音頭取りな奴…。

大勢の人間と関わって、さまざまな性格がわかって、
それでも皆がひとつの方向を目指しているとき、それは大きなWAVEとなる。

       これは、快感だ。

ペースや性格が違えど、グループとして団結している。
大きな仕事になればなるほど、そのような要素が求められる…と思う。

  社会的な生き物として、生を授かった人間の本望である。

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ところが、最近は違ってきているらしい。

学生が「オレ様化」してきた。
何も今に始まったことじゃない。

しかし、ボクが学生の頃は「オレ様」はいなかった。
ボクの時代は、まだ「ツッパリ」がいた。
「ツッパリ」には主張があった。
学校が良しとするルールに対してのアンチテーゼがあった。

「オレ様」には主張がない。ここが大きな違いだ。
学校のルールとは相容れない。「オレ様」だからである。
位相がずれている…と言ったらいいだろうか。
だから、教師の叱咤もピンとこない。…だからキレる。

「オレ様」の行動は、どんな時も正しい。
どんなに理屈で否定されても、ビクともしない。位相が違うからだ。
「オレ様」の行動様式に則って行動しているのだから、
教師の叱咤は、青天の霹靂、不名誉以外の何物でもない。

そんな「オレ様」が横行している。
共同作業や共同制作からは最も遠いキャラクターである。
「オレ様」は利己の本能で行動するから、
他者を理解できない。他者を理解できないから、他者と交わらない。

「オレ様」は消費社会の一員として生まれてきたから、
行動規範は常に損得勘定となる。自分にとって「得」か「損」か。…それがすべてだ。
相手との関わりは常に交渉事だから、一挙手一投足に対価を求めてくる。
「これだけのことやってるのに。」「あいつばっかりイイ思いして。」

チームワークを取ることができない輩たちである。

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同じような人種の深化したカタチ、それがスピリチュアル化だ。
江原啓之や美輪明宏のおかげで、一大前世ブームである。

丹波哲郎も「死後の世界」を売りにしていたが、

細木数子といい、江原啓之といい、
もはやギャグの域を逸脱している。

受け手が、真剣なのだ。

「前世は母なし子だったから、愛情に飢えてるの」

そんなもっともらしいセリフを吐かれて、狼狽えながらも納得する人々。
だから、こんなに胸の奥が凍り付いているのね。
だから、いつまでたってもホントの愛に巡り会わないのね。
だから、目はいつも笑ってないのね…。

前世という確固とした筋書きにすがり、
他者を省みない。…これも「オレ様」の変容したカタチだ。

違っているのは、「オレ様」が「前世」に依拠しているところ。
利己の本能ではなく、過去の本能に依ることで自己を確立している。

だから、周りがみえない。
行動規範が常に予定調和だから、冒険もない。
後ろ盾を「前世」に求めるから、自身の変化も希望しない。

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両者に共通しているのは、自己逃避だ。
「オレ様」は利己の本能が「おのれ」自身だと判断する。
だから「失敗」や「絶望」による学習を求めない。
むき出しになった「裸の自分」を見つめようとしないのだ。

「スピリチュアル」も同じ道を辿る。
自己の導きは「前世」の業に依るものだから、
「オレ様」と同じように「失敗」や「絶望」と向き合わない。
むき出しになった「裸の自分」が見えない。

政治や制度は自分たちで改革する!
と勇んでいた団塊の世代のつまづきがどんどん慢性化し、
人間の本望である「社会に寄与することの歓び」が失われてきている。

これもすべて情報化社会によるものだと、ボクは思う。
「情報」の鎧を着ることで「自分」を装う術をおぼえてしまった。
「欠如」から生まれる創造力が、どんどん減退してきている。

 なるほど、そこで合点がいく。
 大森克己の写真道は、その「欠如」にあったか…と。