「ハゲタカと少女」


「自分が世界と対峙する」ことが、旅の基本構図である…と池澤夏樹氏は語る。
そして、自身と世界との距離を計るものとして、「写真」はある…と。

実際、無心になってシャッターを押し続けることで、
自分のポジションを確認している身に、この言葉は非常に響いた。

捉えられた写真群は、すべて自分の目線である。
自分が見て捉えた情景だ。
「世界との対峙」の姿勢がそのまま写真に顕れる。

ある人は、するどく対象を捉え、えぐり出すように撮影する。
…またある人は、常に一定の距離を保って、冷静に撮影する。

どちらにしても、世界と自分との距離感がそのまま写真に顕れ、
「対峙する姿勢」の鋭さが、多くの人に感動を与えてきた…ように思う。

写真とは「世界との対峙」を意識化し、問題提起するものであるはずなのだ。

その好例として池澤氏はケヴィン・カーター氏の写真を挙げている。
スーダンの飢えを捉えた「ハゲタカの少女」の写真である。
フォトジャーナリズムの最高賞であるピューリッツァー賞を取ったこの写真は、
一方でケヴィン・カーター氏に大きな非難を与えた。

「名声を求めて写真を撮るのではなく、飢えに苦しむ子どもを助けるべきだ」

…との非難である。
写真の本質を見失った非難で、ケヴィン氏は2ヶ月後に自殺をする。

彼はなぜ、自殺に追い込まれたのか。

もちろん彼への非難が引き金になっていることは疑いようがないが、
ケヴィン氏はきっと「世界と対峙」する尺度を見失ってしまったのだと思う。

写真とは、自分を媒介にする行為だ。
世界と向き合い、世界と距離を置くことで成り立つ行為なのだ。
その距離感が問題だ…とボクは常日頃思っている。

しかし、その「世界」が彼のスタンスを非難したのである。
             距離を保たず、対象に働きかけろ…と。
写真行為を全否定する「世界」の非難に、彼は押しつぶされてしまった。

もう、自殺するしかない。…写真を撮る行為はそのぐらい研ぎ澄まされた行為なのだから。

「ハゲタカと少女」のカメラマン自殺
Kevin Carter:1960-1994