【夕暮れな気分】Glenn GouldのBach


沖縄もすっかり秋めいてしまった。
…といっても日中はいまだに30度を超す暑さではあるのだけど。

朝夕、とくに朝方のひんやりとした感じは、
見事に「秋」である。

夏の盛りが過ぎてしまうと、とたんに寂しくなる。
興が冷めて、ひとり佇む…そんな気分だ。

心の奥もなんだかセンチメンタル。
そんな時は、ひとりピアノ曲で悦に入る。

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ころころと旋律を転がるBachに耳を傾ける。
…Glenn Gouldだ。

カナダはトロントで生まれた孤高のピアニスト。
1932年9月25日生ー1982年10月4日没。享年50歳。
ボクは彼のBachで、浄化された…と言っていい。

大学を卒業して2年後、ボクは建築カメラマンの事務所に
アシスタントとして就職する。

倉俣史朗に育てられ、田原桂一と下宿を共にしていたこともある…
ちょうど「団塊の世代」といわれる時代のカメラマンの事務所である。

今にして思えば、ものすごい巨匠なのだが、
マンツーマンでカメラマンと対峙するのが、
ボクにはものすごく苦痛であった。

建築写真の撮影は、太陽とともに動き、太陽とともに終える。

だから、やたらと朝が早い。
始発で渋谷区神泉の事務所まで向かい、
夏は8時頃、帰宅。

酒池肉林の渋谷スクランブル交差点を尻目に
すたすたと帰宅する毎日。

どうやらかなりストレスが溜まっていたらしい。

毎日のように、Glenn Gouldに心酔し、
いつしかBachを弾きたい!…と思うまでになってしまった。

神田神保町の楽器店で小さな電子ピアノを購入。
夜な夜なピアノ譜とにらめっこしながら、
Bachの対位法と格闘した。

まずは右手で主旋律を記憶する。
楽譜が読めないので、とにかくカラダになじむまで
主旋律をたたきこむ。

それから左手。
これも同じようにGouldをお手本に
流れるようになるまで弾きまくった。

そして、最後に両手を合わせてみる。
当然、右手が疎かになったり、左手が疎かになったりする。
そんなときは、オルゴールの回転する歯を思い描きながら、
右手と左手のタイミングをアタマでイメージして、弾いた。

とにかく、すべてがガチガチだ。
アタマの中で回転するシリンダーに操られるように、
右手の中指が動き、左手の薬指が動いた。
ものすごくスローなので、全然Bachに聞こえない。

それでもひとつひとつの動きをカラダに染みこませ、
夜な夜な同じことを繰り返しているうちに、…ひ、弾けるようになった。

奇跡だと思った。

それと同時に、「為せば成る」のだ…とも思った。
これだけの思いを抱かせてくれた音楽の力に、感謝した。
ピアノを弾きたい!と思わせたGouldに、この演奏を聴かせたい…と思った。

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強烈な思い入れでピアノを弾いていた3年間。
レパートリーは10曲ぐらいまでふくれあがり、
調子にのって、友人の結婚式ではBachのカツラをかぶって弾いたりもした。

その思いもいつの間にか薄れ、
かつてのレパートリーは見事に再現不可能な状態だ。

でも、あのときの強烈な感動は、
今でも滾々と湧き上がってくる。

乾いた心をひたひたと潤してくれる。

Glenn GouldのBachは、ボクに生きる力を与えてくれたのだ。