【Nov_27】イエスは神の言葉そのもの


【on_Flickr】JORDAN_2015

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第一は経典に対する態度です。

ユダヤ教徒はモーセの律法を歪曲したとイスラームは考えますが、
ユダヤ教が自分たちがモーセの律法と考えているモーセ五書を重んじ、
律法こそが人間に下したメッセージであり従うべき生きる指針である、
と考えていること自体は、イスラーム教徒の「クルアーン」に対する態度と似ています。

ところが、キリスト教は根本的に違っています。

キリスト教は、イエスその人が神の人類に対するメッセージ、神の言葉だと考えます。

聖書は神の言葉というよりも神の言葉であるイエスに対する教会の証言でしかありません。

だからキリスト教はイエスの伝記である福音書をギリシャ語で書き、
オリジナルなアラム語のイエスの言葉を保存することにまったく興味を示さなかったのであり、

キリスト教の正典としての「旧約聖書」も「ヘブライ語聖書」ではなく、
東方教会ではギリシャ後訳(セプトゥアギンタ)、
西方教会ではヒエロニムスのラテン語訳(ウルガータ)であったワケです。

キリスト教にとっての最終権威は、
神の一つの位格であるイエス・キリストであり、

キリストの昇天後には、そのキリストを証し、
同じく神の位格の一つである聖書が宿る教会そのものであり、聖書ではないのです。

「聖書のみ」を掲げるプロテスタントであすら本質的には事情は変わっていません。
それゆえキリスト教においては、教会それ自体が聖化されますが、
実際には使徒の後継者たちとみなされる祭司たち、
カトリックの司祭、プロテスタントの牧師、が俗人に対して「聖職者」として権威を持ちます。

それに対してユダヤ教のラビ、イスラームのウラマー(イスラーム学者)は聖職者というよりは、
学者、特に法学者としての役割が重要です。この点もイスラームとユダヤ教の構造の似ている点です。

                      (内田樹×中田考「一神教と国家」より)