【田村隆一】帰途

  
     言葉なんかおぼえるんじゃなかった
     言葉のない世界
     意味が意味にならない世界に生きてたら
     どんなによかったか

     あなたが美しい言葉に復讐されても
     そいつは ぼくとは無関係だ
     きみが静かな意味に血を流したところで
     そいつも無関係だ

     あなたのやさしい眼のなかにある涙
     きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦     
     ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
     ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

     あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
     きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
     ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

     言葉なんかおぼえるんじゃなかった
     日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
     ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
     ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる

     ●

言葉なんか覚えたおかげで、
目の前の事象がかすんでしまう。

言葉に変換することばかりに意識が行っちゃって
言葉にならないもっと大事な何かを見過ごしてしまう。

最近、頓にそう思う。

     「言葉なんか、覚えるんじゃなかった。」