
【on_Flickr】2020_JUL_HP_TOP
#photobybozzo
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

久世龍五郎ソロ舞踏『Grayish_Quilt』@中野Terpsichore
照明/三枝 淳 音楽/友井亮輔 舞監/相良ゆみ
写真UPしました〜!
【on_Flickr】1207_GRAYISH_QUILT
テレプシ満員御礼の65人が集中力でもって、舞踏手の一挙手一投足を見守る。
硬直していた物体が何かの拍子に軟体化し、ごにょごにょと不得手に動きながらも、
突如振り切ったように錯乱し、光あふれ総てを掻き乱す。…と、
役目を終えたルンバの如く格納され、跳躍の彼方へ。
これを兆候と観るか、終焉と観るかは捉え方次第だけど、
臨界点に達しつつあることは伝わってきた。
もう限界なのだわ、何もかも。
#photobybozzo

久世龍五郎『Grayish_quilt』@Terpsichore
照明:三枝 淳
音楽:友井亮輔
舞監:相良ゆみ
【on_Flickr】1207_GRAYISH_QUILT
#photobybozzo

羊を百匹持っている者がいたとしよう。
そのうち一匹がどこかに行ってしまった。
そういう時、たとえ九十九匹を荒野に残しておいてでも、
いなくなった羊を探しに出掛けて行かないだろうか。
出掛けて行って、うまくその羊を見つければ、
迷い出なかった九十九匹にもまして、
その一匹の羊のことを喜ぶのではないか。
(マタイ18・12ー13=ルカ15・4ー6)
現実の世の中は算術的合理性で動く。
事実、もしも九十九対一を文字通り
あれかこれかで選択しなければならない時に、
九十九を捨てて一をとる人はいない。
けれどもまた、そういう理屈で、
実際には必ずしも絶対的に
あれかこれかではない場合にも、
九十九のために
一が犠牲に供されていく。
そしてそういう場合はほぼ常に、
九十九の方が何らかの意味で強い者であり、
犠牲に供される一人は
大勢の中でも何らかの意味で弱い者である。
(『イエスという男』より田川建三)
こういう現実に対して、
本当に理性の立場に立って反論を加えるとすれば、
実際には九十九人が少しずつ譲歩しあえば
この一人を滅ぼさずにすむのだから、
みなが平等に困難を分かち合いましょう、ということになろう。
けれども、そう穏やかに申し上げることによって
世の中の不公平が除かれることはめったにない。
世の中全体が算術的合理性を
力をもって強制して来る時に、
それに抗おうと思えば、
こちらも強引かつ単純にそれを
裏返して主張するのでなければ、
強い衝撃力を持てない。
大切なのは九十九ではなくて一だ。
こう主張する時、もはや人は
深く全体を見通す
平衡のとれた理性を失っている。
暴論ですらある。
だがそのように叫び出さねばならない状況は
しばしばあるものだ。
これまた決して不動の真理ではない。
逆説的反抗なのである。
此の世で実際にこのようなことを
ある程度以上主張すれば、叩き潰されざるを得ない。
実際には九十九の力に一が勝つはずがないからだ。
逆説的反抗に立ち上がれば、人は悲劇に突入する。
しかし歴史を動かしてきたのはさまざまな悲劇だった。
イエスという人がさまざまな場面で語り、
主張してきた逆説的反抗を「真理」との
教訓に仕立て変えてはならない。
イエスは「真理」を伝えるために
世界に来た使者ではない。
そのように反抗せざるを得ないところに
生きていたからそのように反抗した、ということなのだ。
そして、もう一度言うが、だから殺されたのだ。