
東中野RAFTでおこなわれた
オックスフォード・パイレーツ公演
「山高帽の深すぎるかぶり方」。
個性的な俳優さん、4人が繰り広げる
ちょっと不思議なおとぎ話。
表情を追っているだけで
観ている方が楽しくなっちゃう。
とても魅力あふれるメンバーだった。
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

東中野RAFTでおこなわれた
オックスフォード・パイレーツ公演
「山高帽の深すぎるかぶり方」。
個性的な俳優さん、4人が繰り広げる
ちょっと不思議なおとぎ話。
表情を追っているだけで
観ている方が楽しくなっちゃう。
とても魅力あふれるメンバーだった。

コンドルズのLIVEを観に、ひとり新宿グローヴ座へ。
初めて来る場所だ。
舞台袖が丸見えで、出待ちのメンバーの様子まで見えた。
客席上手にはカメラマンが望遠で演舞を撮っている。
静寂の中で、シャッター音が響く。
「こんなに響いちゃ、気が散るな」
自省を込めて、一瞥する。
2回目の舞台となる「Knockin’on Heaven’s Door」は
小道具としての7つのドアがとても面白く使われていて、
2時間半もの長時間、飽きもせず笑い転げていた。
やっぱり、彼らは凄い。近藤良平は凄い。
スズキ拓朗さんや、平野慎太郎さんなど、
個別の舞台を拝見したメンバーもいて、
より一層の親近感。
全国ツアーできるダンスカンパニーなんて、
ニッポンじゃ彼らしかいない。
見終わってみて、純粋に楽しめたことが
なんだか誇らしかった。
もっと、もっと、ダンスを観て欲しいな。
肉体の交歓を。

写真は飯舘村立臼石小学校。
線量過多により警戒区域に指定、現在閉鎖中。
子どもたちは川俣町の仮設小学校に通う。
08/31の日経の社説「原発ゼロを性急に選んでいいのか」を読む。
この社説によると原発ゼロを選択することは
石油危機の二の足を踏むことになるので賢明ではない…という。
1970年代の二度の石油危機を通じ、ひとつのエネルギー源に依存しすぎる危うさを学んだ。
政府が原発ゼロを選べば資源国が日本の足下をみるのは避けがたい。多様なエネルギーの
選択肢を手中にとどめておくことこそ、広い意味で国の安全保障にほかならない。
そして、地球温暖化の課題解決に背を向けるべきでは…ないと。
さらに、原発を止めれば石油や天然ガスの輸入額が3兆円余分にかかるので、
日本の経済収支が赤字に転じる可能性があり、燃料調達費と電力不足のダブルパンチで
日本経済に多くの面でマイナスの影響力を与える…と。
電力は暮らしや産業の基盤であり電気は現代社会の「血液」といえる。
万が一にも途絶すれば、経済や社会がまわらなくなる。
(中略)
世界では427基の原発が稼働し75基が建設中だ。多くは電力需要が増える新興国などに建つ。
世界は原子力を必要としており、安全の向上に日本の技術と経験を役立てられるはずだ。
政府が主催した意見聴取会などには原発ゼロを求める声が多く寄せられた。
原発ゼロに慎重とされる30代以下の意見が少なく、世代間の偏りも指摘される。
推進派が論じ立てる「国益」「国防」「安全保障」「電気代高騰」「世界は原子力を必要としている」は、
いわば外堀を固めて外部の目線で原子力の必要性を説くいつもの論法である。
電力は暮らしや産業の基盤であり、電気は現代社会の「血液」。
飯舘村立臼石小学校は、暮らしの基盤であった。
それが万が一にも途絶した。福島の生活はまわらなくなった。
日経(経団連)の論理はいつもこうだ。
弱者を排除してでも、国益を推し進めるべし。
「仕事だからしょうがねえだろ」と妻をなじるモーレツサラリーマンのようだ。
ま、そうだろう。そのように家庭を顧みてこなかった人種たちが今の日本の経済を支えている。
尖閣諸島の購入問題にしても「安全保障」の名の下、20億の税金を一個人に手渡す茶番を演じる。
「国の存亡がかかってるんだ、女子供はだまってな」的スポ根野郎が声高に叫んでいる体。
おのれの無能さ、感性のなさを露呈している。
●
同じ日経の日曜版、文化面にあった作家いしいしんじ氏のコラム「雷鳴とタイムマシーン」。
同じ日経の紙面を読んでる「サラリーマン戦士」たちはこのコラムを読んで、背中に雷が落ちる感覚になったのだろうか?
真っ暗になった。雷鳴が走る。家が揺れ、空気が光り、台所でだしをとっていた妻が、「なに、どうしたの!」と、
たまじゃくしを握ったまま駆け込んでくる。畳一畳分うしろに吹き飛ばされたボクは、アウウウ、と
言葉にならない声を上げ、右腕をのばし、レコードのまわるターンテーブル上を指さしている。
そこにエルヴィスがいた。
ひとに薦められ蓄音機を購入、エルヴィス・プレスリーのSPレコード「ハウンド・ドッグ」を
ターンテーブルに載せ針を落とした時の、いしい氏の反応の一部始終だ。
ボクはこのとき、エルヴィスを「はじめて聴いた」とおもった。
そしてふしぎなことに、くりかえしかけても、その「はじめて」は巻き起こり、
ターンテーブル上にちいさなエルヴィスがあらわれ、腰を振ってくれる。
(中略)
SPレコード自体、のちのLPレコードやいわゆるドーナツ盤とちがって、電気による圧縮なしに
演奏されているスタジオの空気振動がダイレクトに盤面に刻まれた、いわば音の原板だ。
蓄音機も電気を使わない。LPやCDのように、アンプによって拡大された電気信号音がスピーカーから出てくるのでなく、
SP盤上の溝の横揺れが、そのまま版画のように、いま現在の空気を震わせ、木のボディが共鳴して音楽となる。
懐古趣味なんてとんでもない。過去と現在の空気が音楽によって直結され、煙をたてて発火する。
(中略)
ふしぎなもので、その屋敷にはいりこむとボク自身の「いま、ここ」の感覚も変化し、
二十一世紀初頭のある日、京都という町の借家にいる、というだけでなく、もっと巨大な、
うまれて数十年を「いま」、この地球そのものが「ここ」であると、感じられることがたまにある。
強力な音楽はそのくらいのスケールで、時間と空間を内から押しひろげ、外から包み込む。
電気をまったく介さない、当時の空気振動がダイレクトに刻まれた音の原板を、
同じく電気を介さない、蓄音機の針が読み取る溝の横揺れをダイレクトに耳にする。
その体験によって、いしい氏は_生まれて数十年の「いま」、この地球そのものが「ここ」である_と感じるという。
時間の概念が過去から未来への直線ではなく、現在も過去も未来もひとつとなった「クラインの壺」のようなかたまりになって、「いまここ」に在る感覚。
いしい氏の生命がもつ時間と空間が押しひろげられ、外からやさしく包み込まれるような「全肯定」の感覚。
ボクはそこにこそ、明快な答えがあるように思うのだ。
この感性こそが、次の道標を示していると。
日経の社説を代表する推進派の連中は、なににおびえているのか、後戻りはできない…という。
時間概念に常におびやかされ、前をひた走るしかないような、視野の狭い印象を与える。
いしい氏のように、ひとつ立ち止まって、電気をまったく使わない蓄音機に耳を傾ければ、
人間の為し得る技の素晴らしさに、はたと気づくはずなのだ。
万が一にも途絶すれば、経済や社会がまわらなくなる
…とおびえるのではなく、生まれてからの数十年を「いま」と感じるスタンスで、
この地球そのものが「ここ」と感じられる謙虚さでもって対峙すれば、結果は導かれるのだから。