【Apr_24】下鴨神社は新緑の季節


下鴨神社は新緑の季節。

なんつったって、京都は時間と場所の奥行きがハンパない。
出町柳から参道を北上して朝の散歩に下鴨神社。
建立当時からのサンクチュアリとして、
放つもの、感じるものが、まったく違うわ。

なんだろなあ、この土地のチカラは。

聖地だから、人の手が入ってない…というのが、
なにより大きいのかもしれん。
自然を畏怖する心持ちが根付いてる。

【on_Flickr】0424_KYOTO

【Apr_24】築103年の学生寮、京都大学吉田寮。


築103年の学生寮、京都大学吉田寮

今回の京都滞在でしっかり目にしておこうと思っていた吉田寮。
こういう建物が、学生の自治運営の許、
しっかり存続している…という事実が、ホント素晴らしい。

ちょうどKYOTOGRAPHIE期間中で一般公開されていたのもラッキーだった。

東京はトチ狂ったかのように早々とビルを建て替え、
クルマのモデルチェンジのように刷新を繰り返しているけれど、
100年の時間の堆積が無言の語り手となり、
人の営みが土地とは切り離せないものであることを、
しっかりと教えてくれる。

人間なんぞ…という気持ち。
その継続がどれだけ大事なことか。

京都、ホントええとこやわ。

【on_Flickr】0424_KYOTO

【Apr_06】ネクロポリス大阪


ネクロポリス(死者の国)大阪へ行ってきました〜!
写真は千日前「法善寺」の不動明王。

ミナミの千日前界隈、昔は広大な墳墓地であったらしく、
ここ法善寺前は江戸時代まで公開処刑場だったと。

道頓堀沿いは見世物小屋が建ち並ぶ異界の地。
処刑も謂わば「最期の瞬間」を見せる儀式。
そのような世界の「縁」を見せることで、
生きるエネルギー(=ゾーエー)を確認する。

大阪には、そんな生の循環装置が根付いている場所だと、再認識した次第。

実際、東京に戻ってくると、
なんとこの都市は制御され尽くされているのだろう…と、
萎縮せずには居られなかった。

大阪は街の至る所に異界が顔を出している。
人間の浅ましさをあざ笑うかのごときに。
生命本来の迸り(ゾーエー)が此処かしこに見られ、
自然を畏怖せずにはおられない。

「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか」
そういった問いかけが、しっかりと共有されている…。

だから内なる自然=性に対しても大らかなのだ。

“ゾーエーは、自然をもあらわすピュシスと同じように、
「不断に立ち現れる」ものをあらわしている。
個体的な生命をとおして、それは存在の中に不断に立ち現れ、
個体の死によっても破壊されない。

ゾーエーはビオスの内部で活動することによって、
存在の中に立ち現れる。しかし、それは個体性をこえていて、
しかも時間の現象でもなく、このゾーエーのうちに、
無数のビオスで構成される生命の世界の全体はあるのだ。

 ディオニュソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、
荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる、
その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。

そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、
その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、
その中からゾーエーが露呈される、
その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった。” 
(中沢新一『はじまりのレーニン』より)

東京は…。

もはや人間の内なる自然に対しても、制御の対象…というか。
すべてが監視下に置かれた状態…というか。
だから思考も縮こまっているし、お互いを監視しあっているから、すべてがよそよそしい。
ゾーエーものびのびと迸ることができない。

そんな監視社会が未来を司る首都だなんて〜。
笑い事じゃ済まされないわ。

【Mar_25】胎蔵界曼荼羅、新世界。


最初の着想では、パリやニューヨークのミニチュア版を目指したのだろうが、
じっさいに出来たのは、沼地から生え出た蓮の華と放射線状に拡がっていく花びら、
その真ん中を貫いて、にょっきり天に向かって突き上げる金剛杵との組み合わせ。

まぎれもない胎蔵界曼荼羅の構造。

その曼荼羅に、煩悩まみれの大阪人類たちが、住みついたのである。

【「大阪アースダイバー」by中沢新一】

【Mar_25】モダニズムの沼地、新世界


通天閣は、新しいモダニズムの世界に生まれ出るはずの、
「子ども」としてのペニスなのである。

いや、モダニズムそのものが、

既成の秩序を壊す子どもの精神から
インスピレーションを受けた運動である。
そのモダニズムの新世界を象徴する通天閣が、
男の子のものを連想させたとしても、
少しも不思議ではない。

【「大阪アースダイバー」by中沢新一】