【Mar_02】天使館七つの封印 市川雅


天使館の舞踏者は自己の肉体を引き受けつつ、物質としての肉から霊への回路を直進していくのだろう。
舞踏することは肉の生理を反転して反生理に行きつくことである。
前もってする振付は肉を理性に従属させ、温和な表情をもたせてしまうだろう。
肉体は理性の反映でしかなく、糞袋として横行するだけにしか過ぎなくなる。
肉体は意識を踊ることを停止し、肉体の自動記述による舞踏に移行する時、理性からの解放が現実化する。
だが同時にまた肉の生理を反生理に転移させるために、肉を霧散させねばならないだろう。
ここで肉体は錯乱を余儀なくされるのだ。
物質としての肉体と意識の呪縛から脱れ去るには、
それぞれの論理からはずれてしまうことさえ必要なのである。
錯乱とは支配から脱れ得る唯一の道かもしれない。
錯乱を肉のアナキズムと名付けてもよい。
少なくとも、肉の生理と理性の支配は錯乱を通して影を消し、
錯乱の真只中から錯乱によってしか得られない観念が浮上してくる。

いくつかの例をあげてもよい。

笠井がたびたびこころみるいくつかの変身。
私が見た時は魔女から、聖女、そしてよくわからないが道化ハレルキンへと変身していった。
変身はつねに登場人物の肉体を裏切り、肉体の迷宮を形成していく。
変身の激しさは最終的には登場人物のアイデンティティを崩壊させ、混沌のなかに溶解してしまう。
あるいは、アンドロギュヌス的登場人物は、
ある微少な仕種によっても男と見えたり、女に見えたりして視覚を攪乱し、性的一貫性を消失させてしまう。
錯乱に形式があるとすればこうした型で現われてくるが、
そこに見られるものは現実に見られる肉の生理ではなく、反生理の観念なのである。

変身といい、アンドロギュヌスといい、エロチシズムあるいは倒錯した錯乱といってよいだろう。
乱脈、狂気という肉体の次元に立ちいたると、肉体は他の肉体を喰いつくしながら交感し合うものである。

古典バレエのもっているシステムの多くは生理に逆らう性質のもので、ひどく無理な姿態を要求している。
ヴォリンスキー、ツハリアスなどがそこに宇宙的なシンボリズムを発見したのは、
バレエ自体が肉体を錯乱させることによって至高な観念の高みにいたるシステムを持っているからである。
ヴォリンスキーなどがバレエにおける肉体をミクロコスモスと断定したのもこのためだ。
だが、バレエは宇宙のシンボリズムとして成立したとしても、
エロチシズム―すなわち性的錯乱によって物質としての肉体を壊滅させることに不足している。
肉体を技術の倒錯だけでなく、エロチシズムの極点において錯乱せしめたのは笠井叡がはじめてではなかっただろうか。

天使館は舞踏集団であるというより、今や個の自覚による位階更新を目ざしていると聞く。
だんだんと舞踊家であることから遠ざかり、肉体を注視する思想集団になりつつあるようだ。
それとともに、イメージ主義から離れていくのだろう。
かつての暗黒舞踏派が土俗的であるという点でリアリティをかちえ、
そしてまた過剰とも思えるシュールリアリステックなイメージを持っていたのに比較すると、なんという相違であろう。

舞踏は芸術として奉仕しなければならないのだろうかという設問は重大である。

観客に奉仕するにはイメージの累積、またはイメージの故意の貧困さ(アブストラクト・バレエを見よ)が必要であるに違いない。
だが、天使館の舞踏会には振付はないし、ことさらの演出もなく、ただ個人の錯乱の軌跡を残すのみなのである。
ここでは様相が一変していることを再度確認しなければならない。
舞踏者は即興で踊っているが、呪縛に対して即興性を強調しているわけではない。
即興音楽、即興舞踊の類ではなく、彼らにとって即興とは意識と肉体の相互非依存性ともいうべき、錯乱の様態なのである。
反イメージ主義といっても、観客にとってはイメージとして受容されやすいが、
舞台上の完結性を求めることを拒否しているとなれば、
ここにはただ演者のイメージ追従否定のほうが大きく浮かび上がってくるのだ。

天使館は舞踏に接近しながら、遠ざかっている、接近と遠隔のアンドロギュヌスというべきだろうか。
                             1973年美術手帖9月号「天使館七つの封印」より(市川雅)