
やはり中上健次は巨人だった。『紀州木の国・根の国物語』で中上は、
自ら「路地」と名付けた被差別部落を経巡り、「差別被差別」について自問するのだが、
出自にかかわることだけに抉られるような凄みがある。
青年は作業場の一等奥、物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき、
切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から、毛を抜いていた。
自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。
腐肉のにおいの中で青年は、台に一台小さなラジオを置き、手ばやく毛を抜きとりそろえている。
肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが、毛に何匹ものアブがたかっていもいる。衝撃的だった。
その衝撃は、言葉をかえてみれば、畏怖のようなものに近い。
霊異という言葉の中心にある、固い核に出喰わした、とも、
聖と賤の環流するこの日本的自然の、根っこに出喰わしたとも、言葉を並べ得る。
だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。
私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが、
一瞬にして、語られる物語、演じられる劇的な劇そのものを見、
そして物語や、劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。
それが正しい。つまり、小説と小説家の関係である。
若い青年が腐肉のにおいを相手にして仕事をしなくても、他に色々仕事はある、と思いもしたし、
物の実体、ここでは自動車洗いに使うハケや歯ぶらしという商品であるが、
その物、商品の実体は、みにくいとも思った。
人が、そのみにくい実体に顔をむけ、手を加え、商品という装いにしてやる。
いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦(ゆんづる)になる。
バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。
音の本質、音の実体、それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。
音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。
弦は、だが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。
実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。
(『紀州木の国・根の国物語』朝来より中上健次)
後半の記述の激しさたるや。みにくい実体が、
聖と賤の均衡を破ってふきこぼれてしまう物。
音はみにくい…とし、馬の尻尾の毛は、脂や塩のべたべたする苦痛とともに、
快楽そのもののようにヒュンヒュンと音をたてる…と。
穢れの中に浄化があり、過剰さこそがすべてを包摂しうる…とでも言うように。
「路地」を書き貫いた男の筆致は、どこまでも光明だと思った。
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