
『初湯』吉増剛造
濡れている。
濡れている。それをみたものはこの世にはいない。死水か
ら初湯へ。初湯から死水へ。母よ。たっぷりと濡れているの
を忘れて、瞼を濡らすのは、いつからはじまったのか。仮死
の徴候のような、瞼ににじんでくる、母よ、睫毛よ、岸辺の
筏よ。
濡れている。
酒精も、発汗する額も、濡れている。黒岸と呼びならわし
た、幻の大陸がわたしの眼にみえてくる。急流の、洪水や氾
濫ではない。どこかひび割れている河底に萌えたちはじめる
眼、その気配である。母よ。死水から初湯へ。
あれは、泳いでいる死体だ! とだれかが叫ぶ、おそらく
対岸の村の、餓鬼たちだ。
母よ。ひじょうに濡れている。障子も五臓六腑も、あたま
のなかも、手のほどこしようもないほど濡れている。母よ。
宇宙はかーるくゆがみ、どこからか水の漏れる音が聞こえ
てくる。雨期なのであろうか。
死水から初湯へ。初湯から死水へ。
おれにはなんにもするこたねえや!
医者は聴診器を身体にあてて、そこが雨期か乾期かをしら
べるのだ。
ちたん、ぽおたり。ちたん、ぽおたり。
ちたん、ぽおたり。ちたん、ぽおたり。
川やくちびるが濡れている。
わたしの職業は、河川工事の人足だろうか。気がつくとい
つも、銀河のような中州にとり残されて、夜の帳のおりてゆ
く。ああ、母よ。
わたしはあのうみがなつかしい。