【高橋和巳】自己批判ないし自己否定とは、在るべき自己の立場から現に在る自己へと差し向けられる厳格な省察


自己批判ないし自己否定とは、在るべき自己の立場から現に在る自己へと差し向けられる厳格な省察。
つまり、自己否定なきこの国の精神情況は、在るべき自己(理念)を持たないことが常態であるということ。
なぜ理念を持たないか…といえば、市場経済が理念を持たないとの同義である。

当たり前の理屈が通らないこの国の精神は、背骨のない軟体動物のようだ。
写真は立入禁止区域の大熊町立熊町小学校前。

 ↓ ↓ ↓ 以下、伊藤益氏の高橋和巳著『憂鬱なる党派』への考察 ↓ ↓ ↓

多様な価値観が等価なものとして並列する精神情況が内燠に定位されないかぎり、
人は自己批判ないし自己否定と無縁であり続ける。
そうした精神情況は、人が青年期を終える段階になって、その人の内面に初めて生起する。
というのも、その人が生きた現実の多様性が価値観の相剋をもたらすのであって、
錯綜する現実を「事実」として素直に受け止めうる境位に達するためには、
なまなましい葛藤に満ちた「実社会」で、少なくとも数年を生きることを必要とするからだ。

利害関係や知的関係が複雑に絡み合う場で、責任性の負荷に耐えながら一つ一つの行為をなしてゆくときに、
人ははじめて、現に在る自己を見据え、在るべき自己の姿を思い浮かべることができる。
自己批判ないし自己否定とは、在るべき自己の立場から現に在る自己へと差し向けられる厳格な省察であり、
そうした省察をなしうるには、おのずからに、「実社会」を生きながらいつまでも在るべき自己を
実現できない自己(現に在る自己)への激しい苛立ちこそが、自己批判ないし自己否定の原拠であり、
そうした苛立ちとは本質的に無縁な青年たちが、語のまったき意味で自己批判ないし自己否定の主体となるという事態は、
少なくとも本書にとって夢想だにできない空虚な幻想である。

(中略)

高橋は言う。陽光のなかでバイクを駆逐させる青年たちの青春だけが青春だったのではない。
時代の矛盾に内面を引き裂かれた青年たちが、主導的な理念が非在であるままに、
対立と葛藤を重ねた挙げ句、相ともどもに自壊していったその姿もまた、戦後の青春の一コマだったのだと。
高橋は、『憂鬱なる党派』において、自壊する青年たちの内面に深く立ち入り、
その内部的な矛盾や苦悩を剔抉することによって、この国の『戦後』が、表面上の経済的繁栄を余所に、
実は深刻な問題を内含するものであったことを明確にしようとしている。

(中略)

登場人物たちは、終始、累々たる屍をこえて構築された「現実」にどのような未来性を付与すべきかを巡って深刻に苦悩している。
つまり、作者が彼らに与えた眼差しは、単に「戦後」にのみ向かうものではなく、
「戦後」の直因にほかならない「戦」をいかにとらえるべきかという観点を、その核心に据えるものだった。

「戦後」とは、「戦」の本質をとらえ、「戦」のただなかに屍を曝した無数のモノ云わぬ精神を
凝視することをとおして、はじめてその意義を問うことのできる時代である。

作者は、こうした視点に立って、『憂鬱なる党派』の登場人物たちの思念を丹念かつ克明に描いている。