
日本女子体育大学ダンスプロデュース研究部公演
「datura」@アサヒアートスクエア
振付/阿部真理亜 亀頭可奈恵
何のために人間は道具を作り出してきたかわかるか?
石を積み上げてきたかわかるか?
壊すためだ、破壊の衝動がものを作らせる、
壊すのは選ばれた奴だ、お前なんかそうだキク、権利がある、
壊したくなったら呪文だ、ダチュラ、
片っ端から人を殺したくなったら、ダチュラだ。
Daturaと聞けば、思い出すのは村上龍の「コインロッカーベイビーズ」。
コインロッカーから拾われたふたりキクとハシが、閉塞した現代社会における閉塞した自分たちの境遇、
その根源を為す「TOKYO」を破壊せんと、Daturaを求めてサバイバルするアクション小説。
コインロッカー・ベイビーズは「生きる」ことを知らない、
「心臓の音」を知らないからだ。
だから、閉じられた世界から出られない、
壁を壊せないからだ。
だから、「ダチュラ」、破壊する力が必要なのだ。
大切なものを破壊する行為で、生きる意味を獲得するふたり。
上巻、最後の母殺しのシーンは圧巻の極みである。
女は立ち上がってゆっくりとキクに歩み寄った。女の顔から湯気が出ていた。
俺は、閉じ込められている、思い出せ、この巨大な光に切り取られた場所、
閉じ込められたままだ、破壊せよ、お前が閉じ込められている場所を破壊せよ。
キクは、降ってくる光の破片に向かって引き金を引いた。
一瞬目の前にからだの大きな女が立ち塞がった。女が銃口の前に顔を突き出したのだ。
散弾が女の顔を引きちぎった。女は両手を拡げて吹っ飛んだ。
女はさっきと同じような恰好でうずくまった。
赤いセーターを被っているように見えた。
目も鼻も唇も耳も髪の毛も失くなった顔がキクの方を向いている。
そのドロドロした赤い顔は降り続ける雪を吸い込み、表面から湯気を立てた。
60年代70年代の安保闘争の疲弊感を経た80年初頭に発行されたこの作品は、
「義しさ」といったものの筋目が通らない時代の、
立ちはだかる壁(欺瞞にまみれた経済至上主義)に向かって「破壊せよ」を連呼する小説である。
今日の日女ダンプロ公演「Datura」の振付を担当した阿部真理亜と亀頭可奈恵は、
この村上龍の小説「コインロッカーベイビーズ」を知らないと云う。
しかし、この「Datura」に秘められた破壊性を彼女たちの身体が敏感に嗅ぎつけて、
タイトルとして持ち込んだのでは?と思わせる符合が作品の随所に見られた。(少なくともボクにはそう感じられた)
しかし、現代は80年よりも、より複雑に…より巧妙に…より狡猾に…治められている。
いや、社会が巧妙になったのではない。社会を構築するコトバが骨抜きとなったのだ。
0311で露呈した欺瞞の数々。その後も繰り広げられる非人間的な論理と行動。
思考の基盤となるこの国の構造(コトバ)そのものが軟体化し、ご都合主義的に変容を繰り返している。
「破壊せよ」と指し示す標的そのものがターミネーターのようで、どこから再構築を施せばいいのか、すら見えない。
閉塞感はどんどん高まっているのに、破壊欲求が飼い慣らされ、もはや為す術なく窒息寸前の私たち。
「破壊」しようにも、何から行動に移せば良いのか…「Datura」にはそんな昏迷さが漂っていた。
その行き場のない不安感が、「触られたい」であり、「FREE_HUG」の求愛ではなかったか…と。
多感な20代がソリッドに現代を映し込んだ「Datura」。
80年よりも飼い慣らされた現代人の、虫の息の喘ぎが、時代の昏さを見事に表していた。