【Nov_27】遊牧民と農耕民


【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN

遊牧民は群れで共同生活をしますよね。生命の危険も多いし、食糧も少なく安定せず、
生き延びるために集団単位で命がけの大きな決断を迫られることが多いのです。

だからいろんなものを分かち合って、助け合って生きていかざるをえません。

これに対して、大文明を作った定住の農耕民は生産力が高く、
危険も少ないし、食糧も安定しているから、分かち合いの精神があまり育ちません。

日本人は典型的な定住の農耕民ですね。だから、そういう危機的状況に遭遇したときに、
瞬時に決断する協力なリーダーが要請されない。

飢饉にしても、自然災害にしても、
「さて困ったことになった、どうすればよかろう」と車座になって、
何日も議論するだけの時間的余裕がある。

「和を以て貴しとなす」というのが日本における集団の意志決定の基本ルールですけど、
これは定住的で、栽培食物で生きてきた共同体でなければ出てこない発想だと思います。

遊牧民で、牧畜を主とする共同体とボクたちとでは、
何よりまず集団の意志決定システムの創り方が違うのでしょうね。

そこから敷衍していくと、定住型の集団と遊牧型の集団とでは、
政治感覚、経済感覚、宗教性に至るまで、さまざまなところで違いが発生するプロセスが見通せます。

即断即決する強力な指導者を求めるか、
気長な合議を重んじるかの意志決定の違い。

もう一つは、そこから派生してくると思うんですけど、
遊牧型の社会では「成員たちは一個の共同的な身体を形成している」
という身体実感に近いモノがあるのではないかと思います。

水や食物を分かち合う文化、喜捨の文化というのは、宗教的戒律が命じるというより以前に、
「自分たちは一つの身体を形成している」のだから、どこかが壊れたら、どこかが傷ついたら、
もう機能しなくなる、そういう実感から由来したのではないでしょうか?

それに対して、農耕文化は本質的に個人主義に宥和的になる。

自分の農地を境界線で囲って、
「ここからこっちはオレの土地だから入ってくるな」というカタチで資源を分割できる。

自我と内面とかいうものを研ぎ出してくるのは、農耕的、定住的な文化の産物かなと。

                    (内田樹×中田考「一神教と国家」より)