これを見て思うのは、結局戦後はまだまだ続いているということ。
1954年当時、読売新聞社主だった正力松太郎は語る。
「日本は貧に窮している。このままだと共産化するかもしれない。
エネルギーを富みに増やし、共産化を避けるためにも原子力導入は急務だ」
そこにビキニ湾沖での第五福竜丸被爆事件。
「毒は毒を以て制す」の言葉通り、
「原爆アレルギー(!)のニッポンを啓蒙するには
原子力の平和利用を推進するしかない」
これはつまり、東西冷戦構造における共産化の政治情勢を
アメリカがなんとか阻止するための心理戦略だったのだ。
1956年6月21日、第五福竜丸事件から1年半後、「原子力協定」が結ばれる。
そこに至るまでに正力松太郎は、読売新聞+日本テレビの啓蒙キャンペーンと、
政治参入→原子力担当大臣となって、財界を牛耳り「共産化」の食い留めに奔走する。
彼の権力(propaganda)が、放射能にまみれたニッポンの土壌を培ったといっても過言ではない。
