【木村秋則】奇跡のリンゴ


5月17日。月曜日。
ブルーマンデー。
週末の疲れ、引きずっている。

恨めしいほどの青空。

     ●

「聴く耳を持て」

写真を撮るにあたって、そんな発見があった…と
興奮気味にこないだ書いたのだけど、

この週末、その源泉とも言える本
「奇跡のリンゴ」絶対不可能を覆した農家木村秋則の記録
を読みながら、おろおろと涙を流した。

この琴線の振れ具合はハンパじゃなく、
とても短時間で解説できるような感動じゃないのだけれど、

無農薬でリンゴを実らせた…という事実から
じつにさまざまなことを思い知らされ、背中に戦慄が走った。

話の導入は2006年12月7日放送のNHK「プロフェッシャル」がわかりやすい。

品種改良を繰り返し、もはや農薬なしでは花を咲かせることすらできない「リンゴ」。
その人間に管理されまくった果物を自然に還そうと8年間闘い続けた人、木村さん。

6年目の夏には貧窮の極みに達し、家族7人野垂れ死ぬ現実にとうとう自殺を決意。
死に場を求めて山中を分け入ったその先で、たわわに実をつけたどんぐりの木と巡り会い、
無農薬、無農薬と躍起になったあまり、結局はリンゴの木を管理していた事実に気づく。

…そしてついに8年目の春、7つの花が咲いた。

木村さんは語る。
「人間に出来ることなんて、そんなたいしたことじゃないんだよ。
 みんなは、木村はよくがんばったって言うけどさ、私じゃない、
 リンゴの木が頑張ったんだよ。これは謙遜なんかではないよ。
 本気でそう思ってるの。
 だってさ、人間にはどんなに頑張っても自分ではリンゴの花のひとつも
 咲かせることが出来ないんだよ。手の先にだって、足の先にだって、
 リンゴの花は咲かせられないのよ。そんなこと当たり前だって思うかもしれない。
 そう思う人は、そのことの本当の意味がわかっていないのな。
 畑を埋め尽くした満開の花を見て、私はつくづくそのことを思い知ったの。
 この花を咲かせたのは私ではない。リンゴの木なんだとな。
 主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身にしみてわかった。
 それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。 
 自分がリンゴの木を管理しているんだとな。
 私に出来ることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。
 失敗に失敗を積み重ねて、ようやくそのことがわかった。
 それがわかるまで、ほんとうに長い時間がかかったな」

      ●

この話は、無農薬農業だけで収まっているようなスケールじゃない。
人間の営み、経済の仕組み、地球の未来をも包括するような話だ。

「聴く耳を持て」でボクは
写真は相手の声を「聴く」ことで、相手の声を「取り込む」ことができる…と書いた。
そこに撮影者の「意図」が入ると、たちまち写真そのものがつまらなくなる。

木村さんの話も同じだ。

人間はリンゴの花を咲かせることが出来ない。
リンゴの花を咲かせたのは、リンゴの木自身だ…と。

これは経済も同じ。

物々交換の共通価値として登場した貨幣は、
本来、流通の仲介役以上のモノではなかった。
しかしそこに人間の「意図」が芽生え、貨幣が貨幣を生む仕組みを作ってしまった。
それが「利子」だ。
貨幣は本来、モノとモノのあいだをスムーズに流れる存在だった。
それが「利子」の仕組みにより、貯蓄され、売買され、貸借され、淀むモノとなった。

そして、地球の未来も…。

強欲な人間は地下資源を無尽蔵に掘り起こし、
熱エネルギーの消費こそが人間社会の発展…強いては地球の未来をも保障するものだと思っている。
近年の急激なエコライフブームも、結局はその行為への免罪符でしかない。
地球の声を聴くこともなく地球を管理できると思っている人間に、未来はない。
二酸化炭素を減らしたところで、気休めでしかないと、なぜわからないのだろうか?

解決の糸口は、もっとシンプルだ。
   
   「聴く耳を持て」

つまりは身の丈を知れ…ということか。
木村さんの「8年」という月日が、
その意識改革の難しさを物語っている。

しかし、今始めずして、いつ始めるというのだろう。

ボク自身が出来ること。
それは写真を通して、
そのことを体現し伝えることでしかない。

「奇跡のリンゴ」…これはひとつの警鐘だと思う。