
京都法然院の貫主、梶田真章の本「ありのまま」を読んだ。
毎日の生活をていねいに、楽に生きるためのヒントが詰まった本だ。
「散歩をする」「眠る」などの営みの中にある意味を
あらためてわかりやすく説いてある。
その中で非常に響いた一節が2つある。
○「縁」あればこそ
○ 任せきる
ひとつは、人と人との関わり合いについて。
わたしという存在は、父と母の因縁によって生まれてきているのであって
すべての存在はその関係性の中で成立しているのだ…
だから、「わたし」は自立しているのではなく、
まわりのいのちとの関わりの中で生かされているのだ…
確固とした「わたし」は実は存在していなくて
日々の移ろいやそれぞれの縁によって変化し続けている。
自分らしさを追い求め、躍起になったり、
その関係性が破綻したことで、自分を追い込んだり、
「想定内」「想定外」と自分の物差しですべてを決め込まない。
この世界には理解の及ばない、知恵の届かない「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きているのだから、
まずはそこをスタートにして、大きくとらえた方がいい。
ひとつは、自分自身をみつめることについて。
理解の及ばない部分がある…というところから出発すると
わかりやすいのだが、自分自身の内にも制御できない部分があって
その部分を解放してやることで「他力本願」の心が得られると…
「南無阿弥陀仏」とはまさに「他力本願」の極意を言葉にしたもので
「南無」とは任せる、「阿弥陀」とは「量り知れないいのち」、「仏」は「悟り」の意で
「すべては阿弥陀さまにお任せします」という意味になる。
小さな自分を超えた、大きな存在があるのだから、
あなたのすべてを阿弥陀さまに任せきりなさい…と説いているのだが、
すべてを任せるには、自分自身をしっかり見つめることが必要だ…という逆説になっている。
このふたつのプロットは、同じところにたどり着く。
「生を謳歌しなさい」「生きていることをもっと悦びなさい」
あなたの存在自体が、すばらしいことなのだから、ありのまま生きなさい。
毎日を分刻みで忙殺されている身には、複雑な思いが巡るが、
そんな毎日のいらだちもすべて収斂される大きな懐がこの本にはある。