【JUL_04】鳥の方へ――濱口竜介『急に具合が悪くなる』をめぐって

 




真理は、ホワイトボードに図を描きながら、
資本主義の「構造」を説明していく

(ちなみに「構造」の語をめぐっては日本語とフランス語の間に微妙なニュアンスの隔たりがある。
最初、マリー゠ルーが「fonctionnement(作動の仕方)」と言ったのを、真理は「構造」と翻訳する。
より抽象度の高い「構造」(あるいは「システム」)と言いかえることで、
より大きな問題へと結びつけるのである。
それをマリー゠ルーが再び「fonctionnement」の次元で引き受けていくことになる)。

資本主義は、「今ここ」(=都市)が上手くいくために、
「外部」から資源を収奪し「外部」へと問題を押しつけるシステムだ。

「外部」とは、田舎、グローバル・サウス、貧民、そして自然を指す。

資本主義は、次々と「外部」を発見、
再編していくが、「外部」は無限ではない。

さらなる問題は、民主主義やリベラルが、
資本主義に「依存」し「一体化」しているという点にある。

民主主義は、都市部でしか支持を得られない。

「外部」に置かれた圧倒的多数が、
自分たちを搾取し侮蔑するリベラルを憎悪するのは
「当然」のことであるのだ。

真理の声に力がこもる。

真理の講義は、マリー゠ルーの課題を浮かび上がらせるとともに
(彼女の苦境はリベラルの状況そのものだ)、
こうした「構造」からの「抜け道」――より正確には、
「fonctionnement」の別の可能性と言うべきだろう――を想像することを可能にする。


 では、別の可能性とは何か。

それは、足裏マッサージをしながら真理が口にした
「力を抜いた方がいい」という言葉に集約されているように思う。

パリに戻った後のミーティングで、
マリー゠ルーはソフィーに謝罪をする。

そして研修を年3回から年2回に減らすことを宣言。

しかしそれはユマニチュード断念の敗北宣言ではない。
ユマニチュードへの執着を緩め、力を抜くこと。
それによって「遊び」が生まれ、
物事がうまく回り始める。

ユマニチュード(=人間らしさ)が取り戻されていく。

入居者家族へのインタビューの催し
「ヴァネッサの部屋」に職員を登場させることで、
職員間の回路が立ち上がる。

そして外部の支援に頼ったカフェの運営が、
外との回路を作り出していく。

それにつれて経営者側の視線も変わっていくだろう。

角井誠(すみい・まこと)抜粋


【JUL_04】資本主義と窒素 by 鴨志田純

資本主義とは、窒素循環を直線化する仕組みだったのではないか。

少し極端に聞こえるかもしれません。

けれど、農業や食、都市、廃棄物の流れを見ていくと、
この言葉は単なる比喩ではなく、かなり本質に近い問いなのではないかと思います。

窒素は、生命にとって欠かせない元素です。

植物が育つためにも、動物や人間の体をつくるためにも必要です。
けれど、空気中に大量にある窒素は、そのままでは植物が簡単に使うことができません。
だから本来、窒素は、土の中の微生物、植物、動物、糞尿、落ち葉、生ごみ、
堆肥といった関係の中を、ゆっくり巡ってきました。

土から作物が育ち、作物を人や家畜が食べ、その排泄物や残渣がまた土に戻る。

この循環は、単に物質が回っているというだけではありません。
そこには、土地と暮らしの距離、食べる人とつくる人の関係、
地域の中で始末するという感覚がありました。

ところが近代以降、その循環は大きく組み替えられました。

空気中の窒素を工業的に固定し、
化学肥料として大量に農地へ投入できるようになった。

それによって、農業生産は飛躍的に増えました。
人口増加も、都市化も、食品産業も、物流も、その恩恵の上に成り立っています。
ここだけを見るなら、それは人類の大きな成功です。

けれど同時に、窒素は「循環するもの」から「投入するもの」へと変わっていきました。

土の中で育て、地域の中で戻すものではなく、外から買って入れるものになった。

作物は商品として遠くへ運ばれ、食べられた後の窒素は、
下水やごみとして処理され、農地には戻らない。
農地には肥料として窒素が入り続け、
都市には食べものとして窒素が集まり続ける。
しかし、その二つはつながらない。


ここに、資本主義の特徴がよく表れていると思います。

資本主義は、流れを速くします。
資本主義は、距離を広げます。
資本主義は、関係を見えなくします。

そして資本主義は、
本来なら循環の中で引き受けるべきものを、
どこか別の場所へ押し出します。

窒素循環も、まさにそうでした。

土から作物へ、作物から人へ、人から土へ戻るはずだった輪が、
肥料工場から農地へ、農地から市場へ、市場から都市へ、
都市から下水処理場や焼却場へ、という直線に変わっていった。

この直線の中では、窒素は一時的に「生産性」として現れます。

収量が増える。商品が増える。
都市が大きくなる。経済が成長する。

でも、その先で窒素は別の顔を見せます。

地下水の硝酸汚染、河川や海の富栄養化、
温室効果ガスである一酸化二窒素、生態系への負荷。
つまり、直線化された窒素は、どこかで必ずあふれ出す。

ここで大事なのは、化学肥料が悪い、
近代農業が悪い、という単純な話にしないことです。

化学肥料は、たしかに多くの命を支えてきました。
問題は、窒素を「関係の中を巡るもの」としてではなく、
「外から投入し、使い終わったら見えないところへ流すもの」
として扱ってきたことにあります。

つまり問うべきなのは、技術の是非だけではありません。
私たちは、窒素をどのような社会の仕組みの中に置いてきたのか。

食べることと、排泄することと、土を育てることを、なぜ切り離してしまったのか。

そして、その切断によって、
誰が便利になり、誰が負担を引き受けてきたのか。

窒素循環を見ると、社会の構造が見えてきます。

農村は食料を送り出す場所になり、
都市はそれを消費する場所になった。

しかし、都市で生まれた有機物は、農村へ戻らない。

生ごみも、落ち葉も、排泄物も、
本来は土に戻る可能性を持っているのに、
現代社会では多くの場合、「廃棄物」として扱われる。

ここに、私は資本主義の限界を見るのです。

資本主義は、資源を遠くから集め、商品に変え、消費させ、
廃棄物を見えないところへ押し流すことで成長してきました。

それは、窒素循環を直線化する仕組みでもありました。

だからこそ、これから必要なのは、
単に「堆肥をつくる」ことではないと思います。

単に「生ごみをリサイクルする」ことでもない。

本当に必要なのは、直線になってしまった関係を、
もう一度、輪の中に戻すことです。

食べる人と、つくる人。
都市と農地。
廃棄物と資源。
消費と土づくり。

これらをもう一度つなぎ直すことです。

窒素循環を取り戻すということは、
単なる物質循環ではありません。

それは、関係性の循環を取り戻すことです。

どこか遠くの誰かに処理を任せるのではなく、
自分たちの暮らしの足もとで、もう一度、資源の行方を考える。

食べた後のものを、土に戻す。
土に戻したものが、また食べものになる。
その循環を、顔の見える関係の中でつくっていく。

私はそこに、これからの農業や地域づくりの可能性があると思っています。

資本主義が窒素循環を直線化してきたのだとしたら、
私たちが取り組むべきことは、その直線をもう一度、輪に戻すことです。

そしてその輪は、単に物質が回るだけでは成り立ちません。
人と人がつながり、地域と農地がつながり、
暮らしと土がつながることで、はじめて循環は生まれます。

循環の総量は、関係性の総量に正比例する。

窒素循環を考えることは、
私たちがどんな社会をつくりたいのかを考えることでもあるのです。

鴨志田純(2026JULY04)